2017年 09月 20日
幻の大仏鉄道(続編) |
これまで全く知らなかった「幻の大仏鉄道」。運行していたのは「関西鉄道(かんせいてつどう)」ですが、今はもうありません。鉄道の国有化によって消えてしまった会社です。関西鉄道とはどんな会社だったのか気になったので、図書館で調べてみました。
最初に見つけた本は「鉄道史の仁義なき闘い(所澤秀樹著・創元社)」。目次を見るとその「第一戦」に「官設鉄道VS関西鉄道」がありました。「名阪間の歴史的抗争」「明治期の鉄道業界の事情」「私設鉄道誕生の動き」の次に「私鉄創立ブームの中で産声を上げた関西鉄道」の節があり、「小刻みに線路を伸ばしていく関西鉄道」「トドメの大阪延伸は他の私鉄の買収で」と続きます。
明治時代のことで、知らないことだらけですが、なんだか面白そうなタイトルに引き付けられて、一通り目を通してみました。
名阪間の鉄道の競合というとJRと近鉄が繰り広げたビスタカーの全盛時代から新幹線の開通のことかなと思いますが、それはずっと後のお話です。ここで登場する「関西鉄道」は、今から約130年前の明治21年(1888)設立の蒸気機関車の時代の鉄道です。
このほか、「関西の鉄道史(作間芳郎著・成山堂書店)」「関西鉄道史(奥田晴彦著・鉄道史資料保存会)」を参考にしました。良く似た名前の2冊ですが、前者は「関西地方の鉄道の歴史」、後者はA4版496ページの大作で「『関西鉄道』の歴史」をまとめています。
日本の鉄道の歴史といえば「新橋~横浜間に鉄道開通(明治5年(1872))」に始まり、「大阪~神戸間(明治7年(1874))」「大阪~京都間(明治10年(1877))」と続きます。このあたりまでは、国が見本を示すということもあって政府が直営で建設しましたが、当時の政府は全国規模で鉄道を整備する財政的余裕はとてもありませんでした。
かといって外資を導入すると欧米列強による植民地化の危険が伴うということで、民間資本を導入しての鉄道建設しか道は残されていませんでした。
そうしてできた最初の幹線系私鉄は「日本鉄道」でした。明治16年(1883)に上野~熊谷間、17年(1884)には前橋まで開通(現在の高崎線・上越線)。明治24年(1891)には大宮~青森間(現在の東北本線)が開通します。私鉄とはいっても、政府の手厚い保護を受けた会社でした。
このほか、神戸~下関間の「山陽鉄道」(現在の山陽本線)、門司~八代間ほかの「九州鉄道」(現在の鹿児島本線ほか)、室蘭~手宮(小樽市)間ほかの「北海道炭磺鉄道」(現在の函館本線ほか)も、日本鉄道と同様政府の手厚い保護を受けていました。
「関西鉄道会社」が設立されたのは明治21年(1888)。三重県と滋賀県の有力者が連合し、社長に「郵便の父」として有名な前島密氏を選び、まず、草津から四日市間、続いて四日市~名古屋間を開通させました。旧東海道のルートです。続いて、柘植~加茂間が開通し、明治31年(1898)に加茂~大仏間、翌32年には奈良まで開通しました。大仏鉄道の誕生です。前述の日本鉄道等のように政府の保護を受けることのない純粋な私鉄でした。
ここまでは、関西鉄道が直接に建設してきましたが、奈良から大阪へは他の鉄道会社の路線が開通済みであったり、免許を持っていたりしました。そのため、関西鉄道は、四条畷~放出~片町間を結ぶ路線を営業していた「浪速鉄道」を買収し、また、木津~四条畷間の免許を持っていた「城河鉄道」を買収し加茂~新木津~四条畷間を工事して開通させ、さらに、片町駅が狭く不便であったため、鴫野から新線を設けて終点を網島(あみじま)としました。網島駅の所在地は現在の東野田4丁目、大阪市立東高校の辺りです。これによって名古屋~大阪(網島)間が全通しました。明治31年(1898)11月のことです。
関西鉄道では、網島駅~四条畷駅~新木津駅~加茂駅~名古屋駅間のルートを名阪間を結ぶ本線とし、大阪~名古屋間における官営鉄道の東海道本線に対抗すべく、急行列車を網島駅発着で走らせ始めました。このとき網島駅は、名実ともに関西鉄道のターミナル駅として機能していました。名古屋~大阪間全通時の路線図(明治31年)
「関西鉄道」は関西で最も多くの鉄道会社と合併を繰り返しましたが、その中でも最大の合併は「大阪鉄道」との合併です。大阪鉄道は湊町~柏原~王寺~奈良を明治25年(1872)までに開通させ(現在の関西本線の湊町~奈良)、明治26年(1893)には王寺~桜井間(現在の桜井線)、明治28年(1895)には天王寺~玉造~大阪を開通し官設鉄道との接続を果たしていました。これは現在の大阪環状線の東半分に当たります。当初の中間駅は、桃山(現在の桃谷)・玉造・京橋・天満で、明治31年(1898)には陸軍との関連で桜ノ宮駅が開業しました。
関西鉄道は明治33年(1900)に大阪鉄道を買収し、名古屋~湊町が全通します。これにより網島駅の状況は一変します。関西鉄道では、加茂駅~大仏駅~奈良駅~王寺駅~天王寺駅~湊町駅(現在のJR難波駅)間のルートを本線にし、急行列車2往復のうち1往復をこのルートで運行するようにしました。これにより、網島駅の意義は低下してしまったのです。
前年に開通した大仏鉄道は、木津を経由せずに加茂と奈良を直接つなぐルートですから、名古屋~湊町間を最短で結ぶことを意図して建設したのかもしれません。大阪鉄道買収後の関西鉄道路線図(明治33年) 名阪間の関西鉄道と官設鉄道(明治33年)
関西鉄道は、明治31年(1898)11月の陸軍大演習に際し、陸軍からの要請を受けて網島~桜ノ宮間を開通させましたが、大演習の終了後、この区間を営業線とする免許を受け、明治34年(1901)に正式に開業しました。これにより、網島駅は中間駅となりました。明治41年と現在の網島付近
名古屋~大阪間の全通後、関西鉄道と官設鉄道は「仁義なき闘い」を繰り広げます。スピード競争、運賃ダンピングにはじまり、明治36年(1903)の第5回内国勧業博覧会の開催を機に、明治35年(1902)10月に一旦協定が成立したものの、博覧会終了後にはまたもや協定が破棄され、御弁当進呈競争にまで発展します。この競合も明治37年(1904)、日露戦争開戦という国家的危機の中で協定が結ばれ抗争に終止符が打たれました。官設鉄道との競合時代の関西鉄道の広告(明治35年) 第5回内国勧業博覧会開催時の広告(明治36年) 御弁当進呈の広告(明治37年)
その後、「関西鉄道」は明治37年(1904)に「紀和鉄道」を、明治38年(1905)に「南和鉄道」と「奈良鉄道」を合併し、名古屋、京都、奈良、大阪、和歌山を結ぶ鉄道に発展しました。しかし、明治39年(1906)3月に鉄道国有法が公布され、関西では山陽鉄道、関西鉄道、阪鶴鉄道、京都鉄道、参宮鉄道、西成鉄道の6社が買収の対象となりました。対象外となったのは、南海鉄道、高野鉄道、河南鉄道、近江鉄道の4社でした。買収は明治39年(1906)12月から明治40年(1907)10月にかけて行われ、国鉄時代が始まります。明治40年国有化前の関西鉄道路線図
関西鉄道国有化の直前の明治40年(1907)に、関西鉄道は加茂駅~奈良駅間のルートを大仏駅経由から木津駅経由に変更しました。そのため、木津付近の線路の付け替え工事を行います。加茂~木津間の新規接続線を開業するとともに、明治31年(1898)に開業したものの、その後休止していた木津駅~新木津駅間の連絡線約600mを復活し、同時に新木津駅を閉鎖しました。それに伴い、加茂~大仏~奈良間の大仏線と、加茂~新木津間を休止としました。これにより、加茂・木津・奈良付近の線路配置が現在と同じ姿になりました。
その結果、網島~名古屋間の直通運転ができなくなり、大阪~名古屋間の本線は、湊町~天王寺~王寺~奈良~木津~加茂~柘植~四日市~名古屋となりました。奈良~木津間は合併した奈良鉄道の路線を利用しています。残された木津駅~新木津駅~網島駅~桜ノ宮駅間と放出駅~片町駅間は完全なローカル線と化しました。
「関西鉄道」は、明治40年(1907)10月に国有化されました。その後、明治42年(1909)に木津駅~桜ノ宮駅間を桜ノ宮線、放出駅~片町駅間を片町線としますが、片町線と城東線(国有化後、大阪環状線と改称する昭和36年(1961)までの呼称)との交点に京橋駅が開設されたため、桜ノ宮線は不要となり、大正2年(1913)に放出駅~桜ノ宮駅間を廃止し、網島駅もこのとき廃止されました。その結果、木津駅~片町駅間が片町線となりました。これが現在の学研都市線です。
こうしてみてくると大仏鉄道が開業からわずか9年で廃止となったのは、単に急坂の難所を抱えていたことだけではなかったように思われます。木津駅付近の路線の付け替え前後 木津駅付近の路線の変化(左:付け替え前、右:現在)
ちなみに、阪神電鉄の開通は明治38年(1905)、阪急宝塚線の前身の箕面有馬電気軌道と京阪電鉄は明治43年(1910)、近鉄奈良線の前身の大阪電気軌道(大軌)の開通は生駒トンネルの工事に時間がかかり大正3年(1914)、近鉄京都線の前身の奈良電鉄は昭和3年(1928)と遅く、いずれも標準軌の電気鉄道で、国有化の対象にはなりませんでした。また、国有化されなかった関西最大の私鉄である南海電鉄は明治40年(1907)には難波~浜寺公園間を電化するなど高速運転に取り組んできました。国有化された路線と、私鉄として残った路線、その後の運命を大きく左右する分かれ道となりました。
最初に見つけた本は「鉄道史の仁義なき闘い(所澤秀樹著・創元社)」。目次を見るとその「第一戦」に「官設鉄道VS関西鉄道」がありました。「名阪間の歴史的抗争」「明治期の鉄道業界の事情」「私設鉄道誕生の動き」の次に「私鉄創立ブームの中で産声を上げた関西鉄道」の節があり、「小刻みに線路を伸ばしていく関西鉄道」「トドメの大阪延伸は他の私鉄の買収で」と続きます。
明治時代のことで、知らないことだらけですが、なんだか面白そうなタイトルに引き付けられて、一通り目を通してみました。
名阪間の鉄道の競合というとJRと近鉄が繰り広げたビスタカーの全盛時代から新幹線の開通のことかなと思いますが、それはずっと後のお話です。ここで登場する「関西鉄道」は、今から約130年前の明治21年(1888)設立の蒸気機関車の時代の鉄道です。
このほか、「関西の鉄道史(作間芳郎著・成山堂書店)」「関西鉄道史(奥田晴彦著・鉄道史資料保存会)」を参考にしました。良く似た名前の2冊ですが、前者は「関西地方の鉄道の歴史」、後者はA4版496ページの大作で「『関西鉄道』の歴史」をまとめています。
日本の鉄道の歴史といえば「新橋~横浜間に鉄道開通(明治5年(1872))」に始まり、「大阪~神戸間(明治7年(1874))」「大阪~京都間(明治10年(1877))」と続きます。このあたりまでは、国が見本を示すということもあって政府が直営で建設しましたが、当時の政府は全国規模で鉄道を整備する財政的余裕はとてもありませんでした。
かといって外資を導入すると欧米列強による植民地化の危険が伴うということで、民間資本を導入しての鉄道建設しか道は残されていませんでした。
そうしてできた最初の幹線系私鉄は「日本鉄道」でした。明治16年(1883)に上野~熊谷間、17年(1884)には前橋まで開通(現在の高崎線・上越線)。明治24年(1891)には大宮~青森間(現在の東北本線)が開通します。私鉄とはいっても、政府の手厚い保護を受けた会社でした。
このほか、神戸~下関間の「山陽鉄道」(現在の山陽本線)、門司~八代間ほかの「九州鉄道」(現在の鹿児島本線ほか)、室蘭~手宮(小樽市)間ほかの「北海道炭磺鉄道」(現在の函館本線ほか)も、日本鉄道と同様政府の手厚い保護を受けていました。
「関西鉄道会社」が設立されたのは明治21年(1888)。三重県と滋賀県の有力者が連合し、社長に「郵便の父」として有名な前島密氏を選び、まず、草津から四日市間、続いて四日市~名古屋間を開通させました。旧東海道のルートです。続いて、柘植~加茂間が開通し、明治31年(1898)に加茂~大仏間、翌32年には奈良まで開通しました。大仏鉄道の誕生です。前述の日本鉄道等のように政府の保護を受けることのない純粋な私鉄でした。
ここまでは、関西鉄道が直接に建設してきましたが、奈良から大阪へは他の鉄道会社の路線が開通済みであったり、免許を持っていたりしました。そのため、関西鉄道は、四条畷~放出~片町間を結ぶ路線を営業していた「浪速鉄道」を買収し、また、木津~四条畷間の免許を持っていた「城河鉄道」を買収し加茂~新木津~四条畷間を工事して開通させ、さらに、片町駅が狭く不便であったため、鴫野から新線を設けて終点を網島(あみじま)としました。網島駅の所在地は現在の東野田4丁目、大阪市立東高校の辺りです。これによって名古屋~大阪(網島)間が全通しました。明治31年(1898)11月のことです。
関西鉄道では、網島駅~四条畷駅~新木津駅~加茂駅~名古屋駅間のルートを名阪間を結ぶ本線とし、大阪~名古屋間における官営鉄道の東海道本線に対抗すべく、急行列車を網島駅発着で走らせ始めました。このとき網島駅は、名実ともに関西鉄道のターミナル駅として機能していました。
「関西鉄道」は関西で最も多くの鉄道会社と合併を繰り返しましたが、その中でも最大の合併は「大阪鉄道」との合併です。大阪鉄道は湊町~柏原~王寺~奈良を明治25年(1872)までに開通させ(現在の関西本線の湊町~奈良)、明治26年(1893)には王寺~桜井間(現在の桜井線)、明治28年(1895)には天王寺~玉造~大阪を開通し官設鉄道との接続を果たしていました。これは現在の大阪環状線の東半分に当たります。当初の中間駅は、桃山(現在の桃谷)・玉造・京橋・天満で、明治31年(1898)には陸軍との関連で桜ノ宮駅が開業しました。
関西鉄道は明治33年(1900)に大阪鉄道を買収し、名古屋~湊町が全通します。これにより網島駅の状況は一変します。関西鉄道では、加茂駅~大仏駅~奈良駅~王寺駅~天王寺駅~湊町駅(現在のJR難波駅)間のルートを本線にし、急行列車2往復のうち1往復をこのルートで運行するようにしました。これにより、網島駅の意義は低下してしまったのです。
前年に開通した大仏鉄道は、木津を経由せずに加茂と奈良を直接つなぐルートですから、名古屋~湊町間を最短で結ぶことを意図して建設したのかもしれません。
関西鉄道は、明治31年(1898)11月の陸軍大演習に際し、陸軍からの要請を受けて網島~桜ノ宮間を開通させましたが、大演習の終了後、この区間を営業線とする免許を受け、明治34年(1901)に正式に開業しました。これにより、網島駅は中間駅となりました。
名古屋~大阪間の全通後、関西鉄道と官設鉄道は「仁義なき闘い」を繰り広げます。スピード競争、運賃ダンピングにはじまり、明治36年(1903)の第5回内国勧業博覧会の開催を機に、明治35年(1902)10月に一旦協定が成立したものの、博覧会終了後にはまたもや協定が破棄され、御弁当進呈競争にまで発展します。この競合も明治37年(1904)、日露戦争開戦という国家的危機の中で協定が結ばれ抗争に終止符が打たれました。
その後、「関西鉄道」は明治37年(1904)に「紀和鉄道」を、明治38年(1905)に「南和鉄道」と「奈良鉄道」を合併し、名古屋、京都、奈良、大阪、和歌山を結ぶ鉄道に発展しました。しかし、明治39年(1906)3月に鉄道国有法が公布され、関西では山陽鉄道、関西鉄道、阪鶴鉄道、京都鉄道、参宮鉄道、西成鉄道の6社が買収の対象となりました。対象外となったのは、南海鉄道、高野鉄道、河南鉄道、近江鉄道の4社でした。買収は明治39年(1906)12月から明治40年(1907)10月にかけて行われ、国鉄時代が始まります。
関西鉄道国有化の直前の明治40年(1907)に、関西鉄道は加茂駅~奈良駅間のルートを大仏駅経由から木津駅経由に変更しました。そのため、木津付近の線路の付け替え工事を行います。加茂~木津間の新規接続線を開業するとともに、明治31年(1898)に開業したものの、その後休止していた木津駅~新木津駅間の連絡線約600mを復活し、同時に新木津駅を閉鎖しました。それに伴い、加茂~大仏~奈良間の大仏線と、加茂~新木津間を休止としました。これにより、加茂・木津・奈良付近の線路配置が現在と同じ姿になりました。
その結果、網島~名古屋間の直通運転ができなくなり、大阪~名古屋間の本線は、湊町~天王寺~王寺~奈良~木津~加茂~柘植~四日市~名古屋となりました。奈良~木津間は合併した奈良鉄道の路線を利用しています。残された木津駅~新木津駅~網島駅~桜ノ宮駅間と放出駅~片町駅間は完全なローカル線と化しました。
「関西鉄道」は、明治40年(1907)10月に国有化されました。その後、明治42年(1909)に木津駅~桜ノ宮駅間を桜ノ宮線、放出駅~片町駅間を片町線としますが、片町線と城東線(国有化後、大阪環状線と改称する昭和36年(1961)までの呼称)との交点に京橋駅が開設されたため、桜ノ宮線は不要となり、大正2年(1913)に放出駅~桜ノ宮駅間を廃止し、網島駅もこのとき廃止されました。その結果、木津駅~片町駅間が片町線となりました。これが現在の学研都市線です。
こうしてみてくると大仏鉄道が開業からわずか9年で廃止となったのは、単に急坂の難所を抱えていたことだけではなかったように思われます。
ちなみに、阪神電鉄の開通は明治38年(1905)、阪急宝塚線の前身の箕面有馬電気軌道と京阪電鉄は明治43年(1910)、近鉄奈良線の前身の大阪電気軌道(大軌)の開通は生駒トンネルの工事に時間がかかり大正3年(1914)、近鉄京都線の前身の奈良電鉄は昭和3年(1928)と遅く、いずれも標準軌の電気鉄道で、国有化の対象にはなりませんでした。また、国有化されなかった関西最大の私鉄である南海電鉄は明治40年(1907)には難波~浜寺公園間を電化するなど高速運転に取り組んできました。国有化された路線と、私鉄として残った路線、その後の運命を大きく左右する分かれ道となりました。
by hsakai1215
| 2017-09-20 00:34