2016年 08月 12日
第1回「街歩き&グルメの会」の続報(1) |
2015年12月6日に開催されました「野田・福島のまち歩き」の続報です。当日お配りした資料も織り込みましたので、かなりの長文になっています。写真や地図を眺めながら、読み飛ばしてください。
■福島区のあらまし
皆さん、福島区ってご存知ですか?大手前の卒業生の皆さんですから当然知ってはると思います。では、どんな町でしょうか?ウィキペディアで調べてみることにしましょう。(多少加筆修正しています。)
≪堂島より北にあたるこの地は、江戸時代は近郊農村だったが、明治以降繊維産業などの大工場が建設され、周囲は中小企業の工場地帯となった。松下電器産業が福島区で創業(大正7年、1918年)したほか、現在でも印刷・製本工場や、自動車部品などの卸業者が多く立地している。戦前には阪大病院(大正13年、1924年)や大阪市中央卸売市場本場(昭和6年、1931年)なども建設された。戦後は、西日本のビジネスの中心地である梅田に近いことから福島駅を中心にオフィスビルが建ち、工場移転後の跡地は住宅地や商業地になった。
1990年代以降、区内各所に大規模団地や超高層マンションが建設され、阪大病院の跡地には再開発によってほたるまちが建設され(平成20年、2008年)、朝日放送本社が福島駅北側より移転した。
現在、福島区の大部分は住居地域となっており、JR野田駅周辺は空襲から免れた古い長屋や町屋が多く残っている。福島駅周辺にオフィスビルや商業地が集積し、阪神野田駅周辺にも商業地が集積している。区の西部にあたる地域には機械・金属製品工場が存在するが、近年急速に住宅地化が進んでいる。≫
とのことです。
福島区役所正面の藤棚の前での集合写真
■福島区のあらまし
皆さん、福島区ってご存知ですか?大手前の卒業生の皆さんですから当然知ってはると思います。では、どんな町でしょうか?ウィキペディアで調べてみることにしましょう。(多少加筆修正しています。)
≪堂島より北にあたるこの地は、江戸時代は近郊農村だったが、明治以降繊維産業などの大工場が建設され、周囲は中小企業の工場地帯となった。松下電器産業が福島区で創業(大正7年、1918年)したほか、現在でも印刷・製本工場や、自動車部品などの卸業者が多く立地している。戦前には阪大病院(大正13年、1924年)や大阪市中央卸売市場本場(昭和6年、1931年)なども建設された。戦後は、西日本のビジネスの中心地である梅田に近いことから福島駅を中心にオフィスビルが建ち、工場移転後の跡地は住宅地や商業地になった。
1990年代以降、区内各所に大規模団地や超高層マンションが建設され、阪大病院の跡地には再開発によってほたるまちが建設され(平成20年、2008年)、朝日放送本社が福島駅北側より移転した。
現在、福島区の大部分は住居地域となっており、JR野田駅周辺は空襲から免れた古い長屋や町屋が多く残っている。福島駅周辺にオフィスビルや商業地が集積し、阪神野田駅周辺にも商業地が集積している。区の西部にあたる地域には機械・金属製品工場が存在するが、近年急速に住宅地化が進んでいる。≫
とのことです。
今回の野田・福島まち歩きでは、この中からいくつかでも廻りたいなと思います。
さらに、歴史を遡ってみると、
≪淀川(現在の旧淀川)の河口に位置する福島区一帯は、河川土砂の堆積した三角州であった。縦横に分流した川に囲まれた葦が生い茂った島々は、難波八十島と呼ばれ現在でも福島・堂島・都島・難波島などという地名にその名残をとどめている。また、古くより福島の地は瀬戸内海へ向かう船の出発地として使われてきた。福島天満宮の社伝によれば、平安時代の901年に菅原道真が、九州大宰府へ配転させられた際、当地の里人徳次郎が旅情を慰めたことをいたく喜び、この辺りを餓飢島と呼ばれていたのを福島と名づけたという。≫
地名の由来がよくわかりました。菅原道真ゆかりの地です。JR新福島駅近くの福島天満宮は上天神ですが、福島区には中天神、下天神と併せて3つの天神さんがあり、地域では菅原道真が大切にされています。
■古地図に見る福島区
大阪版のブラタモリですので、やっぱり古地図を見ておかなくてはなりません。
図1は、江戸時代天保年間の古地図「浪華名所獨案内」の北西部分、現在の福島区、北区周辺の拡大図です。この地図は上が東になっていますのでご注意を。当時は大坂城のある東を上にして、海から眺めて山を背景にして市街地をイメージすることが多かったようです。こうして見ると、東西の横堀はまさに横向きの堀、横堀です。脱線するのでこのくらいにしておきましょう。
さらに、歴史を遡ってみると、
≪淀川(現在の旧淀川)の河口に位置する福島区一帯は、河川土砂の堆積した三角州であった。縦横に分流した川に囲まれた葦が生い茂った島々は、難波八十島と呼ばれ現在でも福島・堂島・都島・難波島などという地名にその名残をとどめている。また、古くより福島の地は瀬戸内海へ向かう船の出発地として使われてきた。福島天満宮の社伝によれば、平安時代の901年に菅原道真が、九州大宰府へ配転させられた際、当地の里人徳次郎が旅情を慰めたことをいたく喜び、この辺りを餓飢島と呼ばれていたのを福島と名づけたという。≫
地名の由来がよくわかりました。菅原道真ゆかりの地です。JR新福島駅近くの福島天満宮は上天神ですが、福島区には中天神、下天神と併せて3つの天神さんがあり、地域では菅原道真が大切にされています。
■古地図に見る福島区
大阪版のブラタモリですので、やっぱり古地図を見ておかなくてはなりません。
図1は、江戸時代天保年間の古地図「浪華名所獨案内」の北西部分、現在の福島区、北区周辺の拡大図です。この地図は上が東になっていますのでご注意を。当時は大坂城のある東を上にして、海から眺めて山を背景にして市街地をイメージすることが多かったようです。こうして見ると、東西の横堀はまさに横向きの堀、横堀です。脱線するのでこのくらいにしておきましょう。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2015/12/blog-post_21.html
当時のこのあたりは大坂の北西のはずれになりますので、情報量はそれほど多くありません。それでも、地図の左下あたりに、上福島、中福島、下福島、春日社、野田村、円満寺、北安治川町の地名が載っています。玉川古跡、藤ノ名所、二十一人討死旧跡の書き込みもあります。茶色の線が引かれていますので、当時の観光モデルルートになっていたということがわかります。
舟ツバシ(船津橋)、玉江バシ、サクラバシ(桜橋)、蜆バシなどの橋の名前や、「俗に蜆川ト云ウ」との文字も見えます。左上には曽根崎新地の地名があります。堂島が名前の通り島になっていて米市場があったこと、中之島には蔵屋敷が多くあったことなど、この古地図から結構いろいろなことがわかります。しかし、この地図を見ながらのまち歩きは、このエリアについてはちょっと難しいと思われます。
ということで、今回のまち歩きのベースマップには大正13年(1924)発行の「大阪市パノラマ地図」を使うことにしました。
図1 浪華名所獨案内(部分)
当時のこのあたりは大坂の北西のはずれになりますので、情報量はそれほど多くありません。それでも、地図の左下あたりに、上福島、中福島、下福島、春日社、野田村、円満寺、北安治川町の地名が載っています。玉川古跡、藤ノ名所、二十一人討死旧跡の書き込みもあります。茶色の線が引かれていますので、当時の観光モデルルートになっていたということがわかります。
舟ツバシ(船津橋)、玉江バシ、サクラバシ(桜橋)、蜆バシなどの橋の名前や、「俗に蜆川ト云ウ」との文字も見えます。左上には曽根崎新地の地名があります。堂島が名前の通り島になっていて米市場があったこと、中之島には蔵屋敷が多くあったことなど、この古地図から結構いろいろなことがわかります。しかし、この地図を見ながらのまち歩きは、このエリアについてはちょっと難しいと思われます。
ということで、今回のまち歩きのベースマップには大正13年(1924)発行の「大阪市パノラマ地図」を使うことにしました。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2015_08_01_archive.html
図2の大阪市パノラマ地図は、大阪湾上空から見た鳥瞰図で、主な建物や橋などが緻密に描かれています。当時の大阪市は、東西南北の4区の時代で、翌年1925年には第二次市域拡張によって大大阪の時代に入ります。その直前の状況を描いたものです。大阪くらしの今昔館8階の近代のフロアでは、この地図を拡大して床面に展示しています。光床の上でガリバーの気分で見ていただくことができます。
その頃の様子を、当時の地図で確かめてみましょう。
図3は、大正14年「大阪市大地図」です。パノラマ地図発行の翌年の大正14年(1925年)大阪市の第二次市域拡張後の地図です。今からちょうど90年前になります。大大阪スタートの年で、4区56平方キロメートルから、13区181平方キロメートルになりました。人口211万人となり、東京府東京市を上回る日本一の大都市となり、当時の世界でも6番目に人口の多い都市となりました。
東成区、住吉区、東淀川区、港区は巨大な面積の区になっています。当時は近郊農村地域で、人口は現在の都心6区(環状線の内側)に集中していました。なお、港区から分かれて大正区ができるのは、昭和8年のことです。大正橋がネーミングの元になっているそうです。
現在の福島区は、当時は西淀川区、此花区、北区に分かれていました。
区の境界が今から見るとすごくいびつですが、新淀川ができる前の中津川などの河川が西淀川区と此花区の境界になっています。北区と此花区の境界は蜆川になっています。
この地図には工場や学校などの固有名詞が入っていて、北梅田には高等女学校、金蘭女学校の文字も見えます。道路の計画線も入っていますが実際には出来ていない道もあって、面白い地図だと思います。
■地形図に見る福島区の変遷
地図をもう一つ。国土地理院地形図に見る福島区地域の変遷です。
明治42年、西成線と阪神本線が通っています。野田村と海老江村、西九条の他は田園地帯ですが、東側と南側から市街地化が始まっています。職工学校(現在の西野田工科高校)は開校しています。新淀川開削工事は1910年(明治43年)に完成していますが、旧中津川の川筋も残っています。
昭和7年、西成線、阪神本線の他、阪神北大阪線(野田~天神橋筋6丁目)、阪神国道線(野田~東神戸)大阪市電が通り、市街地化が進んでいます。中央市場が開場しています。
昭和30年、白い部分は第2次世界大戦の戦災で焼失した地域、黒い部分は焼失をまぬかれた地域です。海老江、大開、野田には、長屋を中心に戦前の建物が多く残っています。
昭和42年、ほぼ全域が復興して市街地化し、阪神野田を中心として放射状の道路と環状道路ができています。阪神北大阪線と国道線がつながっています。
昭和60年、地下鉄千日前線、阪神高速道路神戸線が開通しています。高速道路が野田・福島を分断しています。下福島公園が完成しています。
■まち歩きのスタートはJR海老江駅から
予備知識はこんなところにして、いよいよ野田・福島まち歩きのスタートです。
集合は、2015年12月6日午後3時、JR東西線の海老江駅です。1997年(平成9年)3月8日 JR東西線開通日に開業した地下駅で比較的新しい駅です。阪神野田駅に近接しており、計画時の仮称は「野田阪神駅」となっていましたが、他社の名称が駅名に含まれることと、大阪環状線の野田駅と区別する意味合いもあり、JRは「野田阪神」という名前を使用せず「海老江」としたそうです。
駅前で資料の簡単な説明のあと出発します。後ろに住居表示版が写っていますが、他区では青か緑が多いですが、福島区では野田藤にちなんでふじ色を使用しています。
国道2号線に沿って北西に進み、中海老江の交差点手前を左に曲がると、国道からすぐのところに石畳を保存している長屋住宅地があります。
軒裏を箱のようにして銅張で仕上げた「箱軒」で、昭和初期から見られる防火を兼ねたデザインです。2階の外壁も銅で覆われています。このあたりは、近くに銅を扱う工場があったため、銅仕上げが多いと言われています。
南へ向かって狭い私道を抜けて進みます。しばらく行くと海老江の三角公園に出ました。元気な女の子たちが遊んでいて、「何してんの?」と尋ねられました。「大人の遠足よ~」と答える女性陣。
■松下幸之助創業の地
そこから、阪神本線と阪神高速道路3号神戸線のガードをくぐると、また公園がありました。90年前にこの地で創業した松下幸之助創業の地の記念碑のある大開(おおひらき)公園です。
創業の家跡、第1次本店・工場跡をめぐり、さらに南へ進むと小学校に出ました。
大開(おおひらき)小学校です。玄関のステンドグラスや門扉にも野田フジがデザインされています。道路を跨いで渡り廊下があり、向かって左側の小学校の増築部分はジャスコ創業の地の跡地です。区役所庁舎と小学校の増築部分に使われています。
■福島区役所からJR野田駅へ
小学校から真っ直ぐ南へ進み北港通りを左へ曲がると福島区役所に出ます。区役所正面の藤棚の前で記念撮影。藤棚は新区庁舎の竣工記念で、下には「野田の藤」の説明プレートがありました。
区役所前の北港通りの信号を渡りさらに南へ。吉野小学校を経て、住宅地を抜けてJR大阪環状線野田駅 へ。野田駅に向かう写真の前方には環状線のオレンジ色の電車が見えています。
オレンジ色の車両は、『大阪環状線改造プロジェクト』の一環として新型車両「323系」に順次置き換えられることになっています。新しい車両は大阪環状線の電車として長年親しまれてきたオレンジ色を基調とした先進的な外観とのことです。323系は平成28年度から平成30年度末までに順次投入され、国鉄時代に製造された大阪環状線内の103系・201系通勤形電車はすべて置き換えられる予定となっています。うれしいような、寂しいような・・・。
野田駅のガードをくぐったところで、「地上を走っていたころの昔の野田駅は、現在よりも少し西側にあったので、現在でも駅舎のあった部分で道路が曲がって走行している」ことを説明しました。これは地図がないとわかりにくいですね。まず、グーグルアースの写真で上空から見てみましょう。
野田駅周辺の航空写真
昭和40年に環状線が高架化されましたが、その際に駅の位置が変わりました。実は環状線が環状運転をするようになったのは、この高架化以降のことで意外と新しい出来事です。それまでは西九条駅でホームの高さが違っていたため、逆「の」の字の形の運転でした。(脱線してすみません。)
緑の〇印が現在の駅、交差点に近いところにあります。赤〇印が以前に平面を走っていた時代の駅舎があったところです。「野田」のバス停は、今でも古い駅舎の前にあります。かつては市電が走っていた頃は、市電の停留所(電停)がここにありました。当時は電停の周辺は駅前商店街として栄えていたそうです。電停の名称は「野田駅前」でしたが、さすがに現在のバス停からは「駅前」の文字は除かれ「野田」となっています。
ここで図10の大阪市パノラマ地図を見てみましょう。環状線の前身の西成線が平面を走っていて、野田駅の駅舎の前に市電の「野田駅前」があります。駅舎をよけて道路が曲がっています。高架になった後もこの道路の線形はそのままになっていて、駅舎の跡はJR関連の倉庫などに使われています。
地図の上の方「玉川町四」の停留所のところで、西成線の上を市電が跨いでいるのがちゃんと描かれています。パノラマ地図では電車の絵が描いてあるところがプラットホームがあったところを表しています。90年前の地図ですが、当時としてはすごくよくできています。もう少し時間の余裕を見て、現地で地図を開いて見ていただく時間が取れるとよかったですね。
もう一枚の図11は市バスの路線図です。「野田」の隣のバス停は、「野田駅前」ではなく「地下鉄玉川」になっています。地下鉄優先の感じ。JR野田駅の近くに地下鉄玉川駅があることを知らない方はたぶん迷うでしょう。そもそも、JR野田駅と阪神野田駅は同じ「野田」ですが、約500m離れています。国鉄時代の駅名は地点ではなくやや広いエリアの名称を付けることが多く、JR野田駅付近の住所は玉川です。JR天満と京阪天満橋と同様、旅行者にとっては厄介な駅名だと思います。
市バスの路線図を見ても、福島区の交通の中心は「野田阪神」であることがわかります。阪神野田駅、地下鉄野田阪神駅、JR東西線海老江駅が近接して立地しています。
JR東西線海老江駅(野田阪神)をスタートして、JR大阪環状線の野田駅まで来ました。全行程の半分まで来ていません。急がないと間に合いませんね。続きは、続編パート2をご覧ください。
図2の大阪市パノラマ地図は、大阪湾上空から見た鳥瞰図で、主な建物や橋などが緻密に描かれています。当時の大阪市は、東西南北の4区の時代で、翌年1925年には第二次市域拡張によって大大阪の時代に入ります。その直前の状況を描いたものです。大阪くらしの今昔館8階の近代のフロアでは、この地図を拡大して床面に展示しています。光床の上でガリバーの気分で見ていただくことができます。
図2 大阪市パノラマ地図(部分)
その頃の様子を、当時の地図で確かめてみましょう。
図3は、大正14年「大阪市大地図」です。パノラマ地図発行の翌年の大正14年(1925年)大阪市の第二次市域拡張後の地図です。今からちょうど90年前になります。大大阪スタートの年で、4区56平方キロメートルから、13区181平方キロメートルになりました。人口211万人となり、東京府東京市を上回る日本一の大都市となり、当時の世界でも6番目に人口の多い都市となりました。
東成区、住吉区、東淀川区、港区は巨大な面積の区になっています。当時は近郊農村地域で、人口は現在の都心6区(環状線の内側)に集中していました。なお、港区から分かれて大正区ができるのは、昭和8年のことです。大正橋がネーミングの元になっているそうです。
図3 大正14年の大阪市13区
現在の福島区は、当時は西淀川区、此花区、北区に分かれていました。
区の境界が今から見るとすごくいびつですが、新淀川ができる前の中津川などの河川が西淀川区と此花区の境界になっています。北区と此花区の境界は蜆川になっています。
この地図には工場や学校などの固有名詞が入っていて、北梅田には高等女学校、金蘭女学校の文字も見えます。道路の計画線も入っていますが実際には出来ていない道もあって、面白い地図だと思います。
図4 現在の福島区周辺(左図の部分拡大)
■地形図に見る福島区の変遷
地図をもう一つ。国土地理院地形図に見る福島区地域の変遷です。
明治42年、西成線と阪神本線が通っています。野田村と海老江村、西九条の他は田園地帯ですが、東側と南側から市街地化が始まっています。職工学校(現在の西野田工科高校)は開校しています。新淀川開削工事は1910年(明治43年)に完成していますが、旧中津川の川筋も残っています。
図5 明治42年 陸地測量部地図
昭和7年、西成線、阪神本線の他、阪神北大阪線(野田~天神橋筋6丁目)、阪神国道線(野田~東神戸)大阪市電が通り、市街地化が進んでいます。中央市場が開場しています。
図6 昭和7年 陸地測量部地図
昭和30年、白い部分は第2次世界大戦の戦災で焼失した地域、黒い部分は焼失をまぬかれた地域です。海老江、大開、野田には、長屋を中心に戦前の建物が多く残っています。
図7 昭和30年 国土地理院地形図
昭和42年、ほぼ全域が復興して市街地化し、阪神野田を中心として放射状の道路と環状道路ができています。阪神北大阪線と国道線がつながっています。
図8 昭和42年 国土地理院地形図
昭和60年、地下鉄千日前線、阪神高速道路神戸線が開通しています。高速道路が野田・福島を分断しています。下福島公園が完成しています。
図9 昭和60年 国土地理院地形図
■まち歩きのスタートはJR海老江駅から
予備知識はこんなところにして、いよいよ野田・福島まち歩きのスタートです。
集合は、2015年12月6日午後3時、JR東西線の海老江駅です。1997年(平成9年)3月8日 JR東西線開通日に開業した地下駅で比較的新しい駅です。阪神野田駅に近接しており、計画時の仮称は「野田阪神駅」となっていましたが、他社の名称が駅名に含まれることと、大阪環状線の野田駅と区別する意味合いもあり、JRは「野田阪神」という名前を使用せず「海老江」としたそうです。
駅前で資料の簡単な説明のあと出発します。後ろに住居表示版が写っていますが、他区では青か緑が多いですが、福島区では野田藤にちなんでふじ色を使用しています。
JR海老江駅集合 資料の説明中
国道2号線に沿って北西に進み、中海老江の交差点手前を左に曲がると、国道からすぐのところに石畳を保存している長屋住宅地があります。
海老江の長屋街、石畳の保存
海老江の町並みと石畳
軒裏を箱のようにして銅張で仕上げた「箱軒」で、昭和初期から見られる防火を兼ねたデザインです。2階の外壁も銅で覆われています。このあたりは、近くに銅を扱う工場があったため、銅仕上げが多いと言われています。
銅板仕上げの「箱軒」の長屋
南へ向かって狭い私道を抜けて進みます。しばらく行くと海老江の三角公園に出ました。元気な女の子たちが遊んでいて、「何してんの?」と尋ねられました。「大人の遠足よ~」と答える女性陣。
海老江の私道を進む
海老江の三角公園、「大人の遠足よ~」
■松下幸之助創業の地
そこから、阪神本線と阪神高速道路3号神戸線のガードをくぐると、また公園がありました。90年前にこの地で創業した松下幸之助創業の地の記念碑のある大開(おおひらき)公園です。
松下幸之助創業の地
創業の家、第一次本店・工場の位置図
創業の家跡、第1次本店・工場跡をめぐり、さらに南へ進むと小学校に出ました。
大開(おおひらき)小学校です。玄関のステンドグラスや門扉にも野田フジがデザインされています。道路を跨いで渡り廊下があり、向かって左側の小学校の増築部分はジャスコ創業の地の跡地です。区役所庁舎と小学校の増築部分に使われています。
大開小学校、玄関のステンドグラスにも藤
本校と増築部分(左側)とを結ぶ渡り廊下が道路を跨ぐ
■福島区役所からJR野田駅へ
小学校から真っ直ぐ南へ進み北港通りを左へ曲がると福島区役所に出ます。区役所正面の藤棚の前で記念撮影。藤棚は新区庁舎の竣工記念で、下には「野田の藤」の説明プレートがありました。
福島区役所正面の藤棚前で大野君も入り集合写真
藤棚下には「野田の藤」の説明プレート
区役所前の北港通りの信号を渡りさらに南へ。吉野小学校を経て、住宅地を抜けてJR大阪環状線野田駅 へ。野田駅に向かう写真の前方には環状線のオレンジ色の電車が見えています。
住宅地を抜けて野田駅へ向かう
オレンジ色の車両は、『大阪環状線改造プロジェクト』の一環として新型車両「323系」に順次置き換えられることになっています。新しい車両は大阪環状線の電車として長年親しまれてきたオレンジ色を基調とした先進的な外観とのことです。323系は平成28年度から平成30年度末までに順次投入され、国鉄時代に製造された大阪環状線内の103系・201系通勤形電車はすべて置き換えられる予定となっています。うれしいような、寂しいような・・・。
JR環状線の新型車両「323系」
野田駅のガードをくぐったところで、「地上を走っていたころの昔の野田駅は、現在よりも少し西側にあったので、現在でも駅舎のあった部分で道路が曲がって走行している」ことを説明しました。これは地図がないとわかりにくいですね。まず、グーグルアースの写真で上空から見てみましょう。
昭和40年に環状線が高架化されましたが、その際に駅の位置が変わりました。実は環状線が環状運転をするようになったのは、この高架化以降のことで意外と新しい出来事です。それまでは西九条駅でホームの高さが違っていたため、逆「の」の字の形の運転でした。(脱線してすみません。)
緑の〇印が現在の駅、交差点に近いところにあります。赤〇印が以前に平面を走っていた時代の駅舎があったところです。「野田」のバス停は、今でも古い駅舎の前にあります。かつては市電が走っていた頃は、市電の停留所(電停)がここにありました。当時は電停の周辺は駅前商店街として栄えていたそうです。電停の名称は「野田駅前」でしたが、さすがに現在のバス停からは「駅前」の文字は除かれ「野田」となっています。
ここで図10の大阪市パノラマ地図を見てみましょう。環状線の前身の西成線が平面を走っていて、野田駅の駅舎の前に市電の「野田駅前」があります。駅舎をよけて道路が曲がっています。高架になった後もこの道路の線形はそのままになっていて、駅舎の跡はJR関連の倉庫などに使われています。
地図の上の方「玉川町四」の停留所のところで、西成線の上を市電が跨いでいるのがちゃんと描かれています。パノラマ地図では電車の絵が描いてあるところがプラットホームがあったところを表しています。90年前の地図ですが、当時としてはすごくよくできています。もう少し時間の余裕を見て、現地で地図を開いて見ていただく時間が取れるとよかったですね。
図10 大阪市パノラマ地図野田駅周辺
もう一枚の図11は市バスの路線図です。「野田」の隣のバス停は、「野田駅前」ではなく「地下鉄玉川」になっています。地下鉄優先の感じ。JR野田駅の近くに地下鉄玉川駅があることを知らない方はたぶん迷うでしょう。そもそも、JR野田駅と阪神野田駅は同じ「野田」ですが、約500m離れています。国鉄時代の駅名は地点ではなくやや広いエリアの名称を付けることが多く、JR野田駅付近の住所は玉川です。JR天満と京阪天満橋と同様、旅行者にとっては厄介な駅名だと思います。
市バスの路線図を見ても、福島区の交通の中心は「野田阪神」であることがわかります。阪神野田駅、地下鉄野田阪神駅、JR東西線海老江駅が近接して立地しています。
図11 大阪市バス路線図福島区周辺
JR東西線海老江駅(野田阪神)をスタートして、JR大阪環状線の野田駅まで来ました。全行程の半分まで来ていません。急がないと間に合いませんね。続きは、続編パート2をご覧ください。
by hsakai1215
| 2016-08-12 00:16